野田阪神と阪神本社

福島中年探検隊

撮影年月: 2000年 4〜5月

野田阪神駅と阪神本社(左)
野田阪神と阪神本社

WISTE 屋上から
野田阪神と阪神本社

JUSCO WISTE の屋上からでも ご覧の威容を誇っています。
阪神は「泥臭さ」がモットーのはずですが、建物は立派です。

野田阪神の主張

野田阪神駅の北側に隣接して阪神電鉄本社ビルがあります。 梅田から ここへ移転してきたのは 10 年前ぐらいでしょうか。 そんなに昔ではありません。 阪神球団のオーナーは有名な人ですが(久万俊二郎氏、大阪ではヘタな芸能人より有名)、一応 このビルの中に執務室があるようです。 スポーツ新聞などを読んでいると阪神本社という記事が出ていることがあります。 この前は高知県知事の橋本大二郎さんが安芸キャンプの陳情に来られていました。

ところが、たいていの人は野田阪神(福島区)に本社があると思っていないようです。 梅田(北区)というイメージが強いようです。 歴史的には梅田駅より野田阪神の方が古いのですが……。 という野田阪神の主張でした。

野田阪神
野田阪神と阪神本社 野田阪神と阪神本社

ちなみに阪神福島駅は昭和 20 年代まで福島西通にありました。 その後、現在のラグザ大阪付近になり 10 年ほど前に地下化されたという経緯があります。 明治時代、阪神創業時の出入橋駅(昭和 24 年廃止)があったためでしょう。 今でも覚えている人が大勢います。 意外と最近まで明治は身近だったんですね。

阪神電鉄本線の野田駅は、地元では通称「野田阪神」と呼ばれます。 これは駅を指すこともありますし、周辺地域を指すこともあります。 単に野田と言うと、JR 大阪環状線 野田駅か 野田という町名になります。

福島区の阪神路線と梅田駅の位置
阪神路線図
「野田」周辺を追記 2002/06/23

復活した野田

野田という町名になったのは比較的最近で、昭和 50 年以降です。 私たちのイメージでは 西成線(国鉄) 野田駅前は玉川町 4 丁目です。 現在の野田 3 丁目にあたります。 野田小学校のあたりは今開町(いまびらきちょう)と言っていました。 野田 2 丁目は大野町で、中央市場は下福島 3〜4 丁目と十六町。 管理棟付近は「安治川上通り」と言って渡し舟がありました。 野田 4 丁目が下福島 5 丁目です。 野田恵美須神社は玉川恵美須神社。

海老江 八坂神社社務所にある古地図など、江戸時代から明治初め頃の地図には野田村として記載があるようです。 大阪市市制施行の明治 22 年以降、北区の一部となったときに「野田」は町名から消えたのでしょうか。 明治 40 年代の地図ではすでに昭和 50 年までの町名と同じになっています。

野田のあゆみ NEW

というほどのことは知りません、すみません。 ただこのあたりは「堂島の江川さんの店子」と言われていました。 江川さんというのは江戸時代からの大地主ですが、戦後の開放で土地は手放すことになりましたが、今でも語り継がれています。 堂島の管轄下にあったということでしょう。 戦後ぐらいまで玉川 恵美須神社は天神祭りのとき、鯛舟を今の船津橋付近(中央市場)から出していました。

攝津製油は明治 22 年(1889)創業ですが、土地取得当時は「下福島村安井堤外」というような住所だったそうです。 つまり河川敷にあったということです。 現在の此花区との区境には昭和 30 年頃まで木場川がありました。 西九条渡し付近から朝日橋へも逆川が流れていましたが、ジェーン台風の後 埋められてしまいました。(というより、埋まってしまいました)

安治川の堤防 かつて木場川が安治川に合流していた地点の堤防には、木場川だった部分をつないでいる箇所が残っています。 私らが子供の時はあった川ですから、堤防の全面改修がされていなくても当然かもしれません。 このあたりに西九条渡しがありました。

西九条渡しのあるあたりは水上警察発祥の地です。 現在は港区の大阪港にあります。 ここに芦分小学校もありました。 現在の野田 6 丁目、西北工営所が その跡地です。 明治 6 年に創立されましたが、昭和 17 年に閉校になっています。 その碑は今でも建っていますが、多くの人が住んでいたということだと思います。

妙見通りというのをご存知でしょうか。 かつて冨島渡し前の道路として商店が建ち並んでいた通りです。 名前の由来は妙見さんがあることによるようですが、今は中央市場で行き止まりのようになっています。 市場ができる前の古い商店街で、こんな古い看板も残っています。 銅板のにぶい色が歴史を感じさせます。

昭和初期と思う古い看板
古い看板 古い看板
木製で「藤平薬局」と書いてあります。

旧野田駅(昭和 39 年以前の駅)から渡し舟乗り場(冨島渡し)へは昔から道があったようで雑喉場橋跡があります。 この碑のある前の道は地元では八間道路と言います。 このあたりは細かい川が縦横にあって雑喉場の運河だったようです。 冨島渡しはポンポン船で、私の子供の頃はありました。 近所の人に聞くと、当時は今のような堤防はなく(当然ですが)、本当に港のようだったと言います。 ちなみに戦前の冨島の渡しは手こぎの小さな舟でした。

戦前か昭和 20 年代か、その頃 醤油を満載にした船が他の船と衝突して沈没するという事故があったそうです。 地元の人の記憶に残っているようですが、とにかく多くの船の往来があったことが想像できます。 西区側の住友倉庫なども元は商船会社でした。 ここは大阪港だったのです。

86 年ぶりに復活した「野田」には、なにかロマンを感じます。 それから 27 年も経っていますが。

雑喉場橋跡の碑
雑喉場橋跡の碑

野田スナップ NEW

撮影年月: 2002年 6月

中央市場前
中央市場前
中央市場前から
中央市場前から
南西に大阪ドーム
住友倉庫
住友倉庫
三井倉庫
三井倉庫
西北工営所
西北工営所
道は八間道路
攝津製油
攝津製油
レンガ作りに蔦
大正期の住宅
大正期の住宅
壁に銅板が
明治期の住宅
明治期の住宅
屋根がかなり低い
「対込町」木札
「対込町」木札
関空特急はるか
関空特急はるか
旧 西成線

注) 個人住宅などは居住者に撮影許可を頂きました。

空襲 NEW

戦争中のことを聞くチャンスが少なくなりました。 野田界隈は空襲の被害は少ない方でした。 しかし昭和 20 年 6 月の空襲では現在の野田 3 丁目や中央市場付近など多くの焼夷弾が落とされて焼けました。 八間道路に面して建っている古い家の屋根には不発焼夷弾の跡が今でも残っているそうです。 レンガ通りから西成線 野田駅が素通しで見えたそうです。

※ レンガ通りは大野湯の前の道で、かつてレンガが敷き詰められていました。 アスファルト舗装は戦後で、以前はレンガや石が一般的でした。 今でも野田の路地に残っています。 その大野湯は今は廃業されました。

このときの空襲は激烈で、西九条から桜島まではほとんど跡形もなく焼けたそうです。 木場川から西側には三菱製紙をはじめとして、徳永ガラス(現 NTT)、大阪製鎖(現 市営木場住宅)などの工場が林立していました。 大阪製鎖は船のクサリを作っていたそうです。 このときの空襲で 6名の従業員が亡くなっています。

※ 大阪製鎖は 1578 年創業で、当時 織田信長の舟なども作っていました。

終戦後まもない頃の航空写真があります。 被災の様子が生々しい。 でも大阪駅を挟んで北区の中崎町あたりと福島区は比較的住宅が残っています。 大阪駅前近辺などは一面の焼け野原と化しています。

下福島と玉川小学校

これは取材不足ですが、少しだけ書きます。 玉川小学校は戦後は地図の場所にありました。(旧玉川小) ここの方がシックリする人が多いと思います。 戦前の旧制の時代は下福島中学の隣にあったそうです。 もちろんこの時は下福島中学はありません。 玉川と下福島は地区が違います。 明治時代からの下福島(尋常)小学校は中央市場敷地、当時は住友伸銅所の工場に隣接してあったようです。

阪神グッズ

2002 年に限っては経済効果は莫大になるそうです。 いつも思うのですが、大阪市は公共事業にお金を使うぐらいなら 阪神のために外人選手を獲った方が効果があります。 民間企業のために市民の血税は使えない? 血税だからこそ使って欲しい。

書籍名「阪神タイガース」 キャラクターグッズなどは阪神デパートに任せます。 区役所隣の福島区図書館に阪神ファンなら見逃せない本がありますので紹介します。 題名はその名もズバリ、阪神タイガース──昭和のあゆみ です。 昭和のあゆみになっていますが、内容は日本にベースボールが入ってきた明治初期から記述されています。 阪神球団の生い立ちも良く解かります。

ちなみに発行者は「株式会社 阪神タイガース」。 これ以上の阪神グッズはありません。

ページ作成日:2002/04/22
野田について 追加:2002/06/23
野田のあゆみ 追加:2002/07/25

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