昔 NHK の大河ドラマか何かのタイトルだったと思います。 樅の木ではなく、蔵が残った写真です。 なぜ蔵だけが残っているのか分かりません。 周りはマンションやビルになっていて、その所有者の蔵なのかも知れません。 文化財というのでもなさそうです。 これは福島(その1)と、玉川(現住所は野田)に残っているものです。
海老江にある古い家では敷地の下から楠(クスノキ)が生えています。 樹齢 200 年ぐらいだそうです。 ご神木らしく切れない。 というより 200 年も前から、ここの家の人は大変だったでしょうね。 木が枯れる数百年のちまで、この木を守っていただけることを願うばかりです。 ※この木は福島区名所ガイドで案内されています。
この柔らかい木の感触はいいです。 コールタールのような油の匂いも残っています。 鬼ごっこなどで遊ぶときに、なくてはならないアイテムでした。 電柱と言えば木製だったのに、いつのまにかコンクリートポールになっていました。
どういうわけか、真ん中から上が切り落とされてありません。 この周辺に一本だけ残っています。 これも文化財という感じではありません。 昭和 30 年 4 月建立のプレートも当時のままです。 住所表示板は今の前の形です。 私有地ではなく公道上に建っています。 理由は分かりませんが、このままにしておいてほしい。
ここは野田阪神駅前と言ってもいいような場所です。(旧 茶園町) その路地裏に井戸があります。 もちろん今は使えませんが、私たちが子供の頃は洗濯や行水に使っていました。 まさに近所のおばちゃんの「井戸端会議」の場所だったのです。 水道がなかったわけではありません。 井戸が掘られたのはいつ頃か分かりませんが、大阪市内の下町には こういう井戸がたくさん掘られていました。 戦災時には役に立ったそうです。
由緒は分かりません。 近所のおじいちゃんに聞いたのですが、戦前からあったということでした。 誰かが最初に建てたと思うのですが、最近まで面倒を見ている家の人が亡くなっていて詳細は不明です。 ただ路地の道幅が違うことがおもしろい。 お稲荷さんのある位置が、もともとの道幅です。 奥は戦後 家が建てられたときに狭まったようです。 このあたりも空襲で焼けた場所です。
今でも近所の人達によって掃除されて花が飾られています。
路地の曲がり角に埋められた「石臼」です。 このあたりで盛んに農業が行われていたのは明治後期までだと思いますが、江戸時代の道標や橋の欄干などが使われていることもあるそうです。 さすがに道祖神は埋められることはないでしょうが、そういうのが お地蔵さんと一緒に祭られている正体不明の石仏かもしれません。
駐車場前の道路の歩道帯に置かれたサツキかツツジ。 プラスチックの漬物樽に植えられて ポツンと置かれています。 しかも見事な花が咲いています。 区内の裏通りでは歩道帯は「庭」ですが、それにしても…。 これは所有者など調べる気にはなりません。 街角の花として、そっとしておきたい。
松下幸之助 創業の家です。 現在の松下電器は、ここから始まりました。 近所に人に聞くと人物像がよく分かります。 一緒に写真に撮ったことがあるなんていうのは珍しくなくて、10年前に死んだじいさんは幸之助とツレ( 友達の意 )だったとか、いつもチビた下駄を履いていたとか。 ちなみにサンヨーの創業者は幸之助の義理の弟で、ここで一緒に働いていたそうです。
ナショナルというとテレビなどの家電を思い浮かべる人は多いと思いますが、このあたりではソケットか自転車のライトです。 四角で真っ黒なブリキ製で 上に取っ手が付いているタイプの自転車用ライトもここで作っていました。
今はナショナル発祥の地の痕跡は見あたらなくなりましたが、野田阪神駅前に公園があったときは大きな広告塔が建っていました。 これは私たち子供には良い目印になったのですが、広告塔があったことを知っている人はすでに 40 歳〜 50 歳以上。 そのうちに「昭和も遠くなりました」と言われそうです。
この商店街は野田阪神駅前から現在の阪神高速 海老江ランプ付近まで続いています。 昭和 30 年代までは繁盛した商店街です。 というよりも戦前から賑やかでした。 下島町に三菱製紙やレンゴーなどの大きな会社があったためです。 (レンゴーは現存) 毎朝、野田阪神から通勤客で長蛇の列だったといいます。 ヤマト館など芝居小屋もありました。 新橋筋より由緒(?)がありそうです。
現在の大開 2 丁目にある、古い酒屋さんです。 残念ながらご当主に直接話しが聞けませんでしたので、正確な建設年代は分かりません。 ご近所の 戦後すぐに引っ越してきたという人が、「すでにありましたで。」と言っていましたから戦前は間違いありません。 この一帯の長屋の大家さんでもあります。 区内の古い民家に共通する外観なので、大正期のもののようです。
三菱製紙 浪速工場は、戦前は浪速製紙と呼ばれていたそうです。 いまの福山通運のあたりにありましたが、昭和 41 年(1966)の年の瀬も迫った頃に閉鎖になりました。 国鉄 西九条駅から市営木場住宅前を通る道も通勤者で鈴なりだったそうです。 北港通りは まだありません。 私たちが子供の頃は、敷地か空地かよく分からないという感じで遊んでいました。 福通の前のお地蔵さんは、これを見ていたのかも知れません。
夜店の貼紙に書いてある「福山通運前の地蔵尊」です。 由緒は看板に書かれています。 ここに水門があった頃の水難者慰霊のために建てられたそうです。 北港通りが運河(川)だった頃ですから、昭和 20 年代まで水門がありました。 今は跡形もありません。 ここは中津川、正連寺川、六軒家川、木場川などの分流点でした。 木場川も現在は埋め立てられてありませんが、摂津製油横の道などは長い間水溜りのようになっていました。
大開(おおひらき)という町名は、明治 22 年の大阪市制施行時には「西野田大開町」としてあったようです。 現在の大開 2・3 丁目で、1 丁目は昭和 50 年まで(西野田)茶園町と呼ばれていました。 大開 4 丁目は下島という島がある以外は中津川および河川敷です。 この豊富な水量が製紙会社を生んだのでしょう。
学区的には近年まで大開 4 丁目は新家(しんけ:現 吉野 5 丁目など)に含まれていました。 これは新家の方から橋が架かっていて、大開からは渡れなかったことによるようです。 大開には大開小学校、吉野には吉野小学校があります。 新家にも かつては小学校がありました。 これは現在の野田中学校です。
大開 4 丁目(元 下島町)を「ねずみ島」と呼ぶお年寄りもいますが、この呼称は勧められません。
明治初めの大開地域は西成郡野田村の一部と思います。 阪神電車を境に海老江(西成郡鷺洲村)に隣接しています。 鷺洲村のち鷺洲町は、大阪市制施行時には まだ郡部でした。 とはいえ明治 38 年、阪神電車が通ってからは駅前地域として発展しました。 「開」は新田開発が元になった地名かもしれません。 福島区内では今開町、草開町、中開町という町名もありましたが、30 年以上前に消滅しています。 最後に残っているのが大開です。
ページ作成日:2002/05/25
追記:2002/12/18
ご感想・ご意見を お聞かせ下さい。 掲示板はこちら